うつくしきサラ

エッセイ

にい、にい。

結露した窓の向こうからその声は聴こえてくる。

「あ、黒猫」

「入れたらあかんよ、飼い猫にはせえへんからね」

窓を開けようとする私を制して、皺皺の震える手がキャットフードを盛る。

「食べ物だけあげてるんですか」

銀の皿を窓下のコンクリイトにキャタンと置くと、猫は静かになった。

おばあちゃんは答えない。

もう一度質問しようと横顔を覗くと、イヤフォンをつけている。

彼女が独り暮らしになって、一年ほどになる。

独り暮らしになって。

独り暮らしを始めて、ではなく、なって。

そう表現したのは、線香の匂いが、まだ新しいから。

無音の独り暮らしにイヤフォンが自然添えられるようになった。

多分そうなんだろう。

私は、質問の答えがなくてもいい。

「おじいちゃんはなあ、よう内緒で家入れて、抱っこしたり」

床がきしむ。

「そういえばあんた、サラのスーツあげよう思っててん、着れるかな」

「サラ?」

あ。まっさら。

そうか。新品。

階段をのぼっていく音。

静寂と、冷え切ったリビング。

「ねえ」

ご飯を食べ終わった黒猫は、きっ、とこちらを見据えた。

君は、うつくしいね。

サラなんだ、君。私にとって。

昔から「美人」や「イケメン」には全く興味がない。

動物や植物の美しさが好き。

その美しさの理由は何か考えては、意味がないことだと思った。

ただ、白。混じりけなき白。

そういう色を宿して彼らはそこに存在している。

「おぜんざい」

黒猫と見つめ合っていた私に、声。

「え?」

振り返ると、イヤフォンを片方はずした彼女がにんまり笑っている。

「おぜんざい、食べよ思ってな」

「あ、えっと」

「餅あるでしょ、それを毎年なあ、おぜんざいに…」

あ、その表情も、美しい。

黒猫と、おばあちゃんを目の端と端で捉えて、はっとする。

人も、サラになれるのかもしれない。

いつしか。

「きれいですね」

「なんて?」

「いや、きれいだと、思って」

「ああ、野良猫にしてはなあ」

いいえ、あなたも。

喉が詰まって、声にはできない。

「あの人がなあ。かわいがっててん」

窓を閉める手。

おばあちゃんの口から、白い息が漏れた。

黒猫はもう、いなくなっていた。

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