もう忘れられた私

エッセイ

辞めた会社と私

私はきちんと会社を辞めることができなかった。いろいろなひとに甘えて、できる仕事とできない仕事を区別できず、心身が壊れるほど働き詰めて、もう機能しない状態になって辞めた。

たくさんの経験に良し悪しの評価をつけるのはたやすい。退職を美徳にする文化も最近はよく見る。けれども、結果として私というひとりの労働者がマイナス1としてカウントされたことは覆されない。そして、そのマイナスを誰かが埋めてくれたのだろう。

源泉徴収票が届かなくて、何度も問い合わせては待ちを繰り返し、確定申告前日になって取りに行く。

いまその道中、この路線に乗ることさえ胸が苦しくて耐えられないから、スマートフォンの画面だけに集中しようと、いま、この言葉を連ねている。

一駅、一駅、近づくごとに思い返す。私はどれほどの迷惑をかけ、どんなふうに思われただろう。そして思う。届かなかった源泉徴収票。忙しいあの職場では、もう私の存在などタスクにもカウントされないくらい、「無」なのだろうな、と。

甘えのシーソー

甘えあえる存在を求めている。ずっと。

家庭環境、生活、性格、あらゆるものを分析して理由を連ねるのは省略する。とにかく私は甘えるのが苦手で、だからこそ偽の甘えだけは得意になった。

いつも自分のなかで相手と自分の甘えの重さを量っている。ゆらゆらと、均衡を保ちながら、等価の甘えをお互いにできているか、と。

時にその重さが傾いていたら、わざと重石を足したりして均衡を取ろうとする。それすら難しければ、シーソーを降りる。座っていた、向かい合っていた相手は、跳ね上がった空席を見てどんな気持ちだろう。

本当はそんなこと考えるて微調整するのは本当の甘えではないだろうし、相手も楽しくないだろうな。そう思っている。ガタンガタンといびつなリズムで傾きながら、笑いあえればいいのに。

たぶん、それが本当の等価なのに。

私の価値は

自分の価値は自分でひとつずつ積み上げるしかないと思っている。それをマイナスの底辺から積み上げてきた。少しはプラスになっただろうか。そう希望を持つ瞬間、会社を辞めたという大きな損失、大きなマイナスが目の前に立ちはだかる。

シーソーをガッタンゴットンさせながら甘えあう仲間を、わたしは見つけられなかった。だから、降りてしまってきた。それが大きなマイナスになって、私はいつまでも価値を感じられない。相手に詫びながら生き続ける。

もうすぐ駅につく。

私の価値は、いま、春のもやもやした夕暮れのなかで、輪郭を崩していく。

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