最近のインフルエンサー界隈の諸々をぬるく見守っていて考えたこと

なんだか最近、色々騒がしいですね。
と言っても、きっとこの騒がしさってSNSのなかにできた一種の檻みたいななかだけのものなんですよね。スマホを置けば、窓辺の私の目に映るのは緑を濃く輝かせる畑と、そもそもスマホなど持っていない近所のおばあちゃん(樹木希林ファン)です。
インフルエンサーに感じていたモヤモヤは嫉妬であり疑問であり
「有名になりたい」という願いを強く持てない私は、有名になるための努力をできる人間ではありません。それは、勉強が嫌いだから勉強しないのと同じ感覚です。(むしろ私は、勉強のほうが好きです。)
個の時代とか、SNSを制した者が社会を制するとか、そういう言葉を見るたびに「ああ、私この時代に合ってないんだろうなあ」と思っていました。でも、それにグッと背を向けて「このままでええんじゃい」と言えるほどに強い芯もないので、“一応”SNSに向き合ってみたり、自己発信もしてみたりするのです。
インフルエンサーという定義を初めて耳にしたとき、「うらやましいな」と思いました。この人たちは、影響力を自分のスキルとして謳い、肩書きにできるのかと。
けれど、その人たちを一人ひとり注意深く観察してみても、自分のアンテナはビビッと来なくて、「どうしてこの人たちがそんなに影響力を持つのだろう」と、嫉妬と疑問を足して2で割ったような苦い感情を飲み込んでいました。
モヤモヤ。見なければいい。勝手に目に入ってきてモヤモヤ。ミュートすればいい。ミュートしている自分にモヤモヤ。そういうモヤモヤがインフルエンサーと私の間にはいつも煙のようにあって、その理由が判然とせず、モヤストレスはマックス値に達してしまいそう。そんな感じが続いていました。
見たくなくても見せてくる、その強欲さが嫌い
自分は、自分のしていることや自分の生き方に対して、それなりに自信を持っていたい。その自信は自分で認めてあげられるものだけれど、たまには他人に褒めてもらったり評価してもらったりもしたい。
これって、そんなに特別な願望ではない気がしています。わがままでもないと思う。この願いが叶うまでの時間とか、満足度の度合いとかは人によってそれぞれだけれど、割と自分が「ヨシ、いい感じ」と思えばそれが正解、そんな話ですよね。
でも、もしも自分の小さな幸せの世界に、全く自分とは違う価値観を以て自分よりも高い評価、見上げればチョモランマほどの高い評価を受けている人が定期的にコンニチハしてくるとしたら、ちょっと不安になりませんか?
「関係ない」って言いながら反応している自分がいる。「どうでもいい」って言いながら観察している自分がいる。もっと関与すべき事象や興味を持ちたい世界があるのに。
影響力って副次的な産物じゃないの?
あれ、こう考えてみると結構嫌いだな。
改めて彼らの何が嫌いなのかを考えました。自分とは違う価値観というだけなら、私はむしろ大歓迎の人間です。新しい発見や自分を見つめ直すチャンスがあるだろうから。(実際私は、一度そうやって受け止めようと、自分が影響力を持つための目標として彼らを見ようと努力しました)
私は、彼らが、何もメッセージを発していないことが嫌いなんだなと思います。みんなを面白がらせる企画とか、誰かの欲望を満たすための話題とかは提供しているけれど、そこに軸がない。
「有名になりたい」、「いつか何かをしたときに役立つ影響力を先につけておきたい」という願望は確かに発信していますが、めっちゃツッコミたい。なんで先に影響力をつけようとするの?って。
有名になることって目的じゃなくない?何かを成し遂げたり、あるいは失敗したりする過程で徐々に手に入れていくものではないの?
同じ構図を金儲けでも描ける気がします。金は行動の対価ですよね。資本主義社会で生きていくためには社会貢献や誰かのためになる行動を通じて対価をもらう。当たり前のこと。
それは義務であり、同時に生きる意味・手段でもある。そのサイクルを好循環にするために、貢献×好き・やりたいという気持ち×時間の立体的なパズルを組み立てるんです。そのプロセスで、人の魅力は磨かれていくのでしょう。
なのに、金を目標にして動くクソ野郎がそれなりにいますよね。金に自分の好きな気持ちが直結して、金が生きる意味になって、社会や他人への貢献を度外視し、他人の時間を搾取して金を生み出すパターン。大嫌いです。
でもこういう人は、前者より金を儲けますから(当然ですよね、それしかパズルのピースがないイージーモードだもの)、金で金を呼び寄せ、人を買えます。それで、本来金を受け取るべき人の配分が少なくなったりする。
影響力も全く同じ気がするんです。影響力を目的に動いている人は、影響力のステータスを高めることにしか興味がないから、あらゆる手法やテクを用いて人を集めるのは容易い。その人を金や時間に変換して、もっと影響力を高めることができる。その循環が膨大な数のフォロワーを生み出す。
でも、その影響力を作り上げている一人ひとりの存在はないがしろにされるし、その影響力で潰されたり、影になったりする事象や人もいるんです。
それをめちゃめちゃに感じるのが炎上商法。誰かの心を裏切ることとか、その炎上の裏側で嫌悪感を抱く人のこととかは、きれいに無視されています。さらに、炎上した結果が波紋として広がり、全く別の事象を引き起こすことも想像されていません。
「それは俺らの知ったこっちゃない」と開き直るのは、その影響力に資するだけの失敗や成功をしたことのない人が、影響力だけを手に入れてしまったからだと思います。そういう意味で聡くない人が、影響力などつけてはいけない。
彼らは影響力さえ高まれば良いから、他人のことなどどうでも良いのでしょう。まるで「かっこいい」という理由だけで、使い方を知らない銃を振り回している小学生みたい。
これが、影響力のために動いている人を嫌いな理由です。
叩かれたって何したってWinだから炎上させる
それで、いざ自分の預かり知らない炎上が生じたときによく見るパターンが下のやつ。
1.心がこもっていない謝罪をする
2.自分を被害者にしてファンから擁護される
3.論点をすり替え、あわよくば都合のいい宣伝にする
このタイプの行動を取る人は、生粋のインフルエンサーだなあ、とむしろ関心します。予想だけれど、口で謝っても自分が何故悪いのか絶対に理解できていないし、理解する日も来ないでしょう。
だから、この手の人たちに「辞めろ」とか「ちゃんと謝れ」とか言うのはむしろナンセンスです。その発言すら、彼らをもっと大きなモンスターにするための養分のひとつになっているから。
だから正直、彼らを叩く発言に執着している層も私は大嫌いです。自分のストレスを発散するために便乗しているヤツも少なからずいるだろうし、何よりその行為で火に油を注いでいることに無自覚なところが愚か。
そして、「これだからアンチは」みたいなまとめられ方をして、本来着目すべきだった課題がないがしろにされてしまうきっかけも作っています。
炎上商法がかくも頻繁に起こるのは、先に述べたような1~3のパターンのどれで対応しても、結局は影響力が高まるからですよね。影響力だけを求めるならば、実に簡単でしょう。他人や社会の痛みを切り捨てるならば。
かの人々に加担しないと私は決めた
でも、私はやっぱりそういう人たちが嫌いです。だから、加担しないことに決めました。これは、無関心だから無視するのではありません。彼らの影響力を0.00001%でも弱めたいから、絶対に彼らの発言に賛も否も伝えないのです。
私は毎年選挙に行きます。それは、0.00001%(もっと低いけれど)でも日本の未来を変えたいと願うからです。友だちや旦那の行動で疑問に思ったことは、言葉を選びますが、伝えます。もしかしたらそれが、相手にとって良い結果につながるかもしれないし、わかりあいたいと願うからです。
私から最大の嫌悪を伝える手段は、無関心であることです。そうすることで、社会なんてどうでもいいから有名になりたいと願う人が一人でも減ればいいなと心から思っています。
そして、そういう人たちは、影響力を高めること以外に今までの努力を転換してほしいです。何らかの社会に資する行動をして、ひとりまたひとりと、少しずつ賛同する人を集めていってほしい。いつかは批判する人にも出会って、その批判を受け止めて改善してほしい。
私のようなインフルエンサー嫌いにまで名前が届くほど強い影響力を持つ行動した人は、きっとめちゃめちゃ努力しているし、考えていると思う。それこそ、私ができない努力だから一種の羨望や妬みの感情だってあります。
その能力を、別で使ってください。数年後、数十年後、あるいは意外と早く、同じくらいの(でももっと密度の濃い)影響力を得ることができるだろうから。
インフルエンサーが増えたら、どんな森が生まれるのかな
私の周りには、すっげー変な人がいっぱいいます。変な人という言い方が正しいのかわからないけれど、着眼点が独特だったり、考え方がすぐれていたり、意味のわからない趣味に情熱を燃やしたりしている人がたくさんいます。
そういう人に限って自分ではそれを発信していなくて(めんどくさいんだって)、ケラケラ笑いながら、私が横にいるだけでいいなんて言います。
彼らの幸せそうな姿を見る人は指を折って数える程度しかいないのだろうけれど、それでいいのだと思います。私は、彼らのことが大好きです。
そもそも影響力が欲しい、有名になりたいって欲望は、どこから生まれてくるのかなあ?その予想をここであえて明言はしませんが、多分、その欲望をこの時代に持っている人は、めちゃめちゃいっぱいいると思う。いわゆるマジョリティですよね。きっと。
だから、インフルエンサーは多くの人にとって希望の光だろうと理解できるし、なりたい自分像にもなり得るんだろうな。
でも、本当はそんな姿、後世に見せてほしくない気もする。
影響力を持つ=成功という方程式を一般化してしまったら、誰が森を見るのだろう。森というのは、そればかり考える木が増えてしまった結果、その森がどうなるのかという意味での、森です。
社会なんてどうでもいいから有名になりたい人の比率が増えてしまったら、この社会はどうなってしまうんだろう。怖い。
SNSが普及した時代だけれど、個人が活躍する時代だけれど、「影響力ってそう簡単に得られるものではない」という事実を認識できる世の中であってほしいなあ。
以上、影響力のない私より
……っていう壮大すぎる愚痴のようなものを書いて、「ああ、こんなにたくさん書いても私、影響力ないもんな」と我に返りました。
固有の人名を出さなかったのは意図的で、「加担しない」と決めたからだけれど、結局何言いたいのか、わからない文章になっちゃった感もある……。
まあ、でもこれも、誰かひとりにでも届けばいいや。
私は私のできることをして、信じるものを貫いて、数十年後私の肯定感を支えてくれるひとが少しでもいればいい。
それを信じ続けるのは容易いことではないけれど、それを選んだ自分を誇ることで、私もきっと何かを誰かに伝えられるだろう。
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