コロナと私の3カ月

エッセイ

この文章は、未来の自分のために残す記録です。本当はこのような類のものを書くべきか、そして書いても出すべきか、悩んでいました。しかし、とうとう今、深夜3時、書かなければ心があふれてしまう時が来て、公開したいと願う自分がいたから、その想いに従います。

直近の3カ月間を振り返り、記し、これからへ向かいます。

―1月―

おそらく、まだ大きなニュースになっていないタイミングでSNS上の「コロナウイルス」というキーワードに触れました。みずから率先して検索していた記憶もあります。

今春の就職を目指して就活をしていた若旦那と、日々「これ、やばくない?」と話題にあげては盛り上がっていました。

話は少しそれますが、若旦那は大のゾンビ映画好きです。スプラッタやホラーが嫌いだった私も、あまりに多くの作品を共にして、今となっちゃ血もゾンビも笑いながら観られるようになってしまったくらいに。

彼はよく、「もしもゾンビウイルスで世界がパンデミックになったら」という妄想話をツマミに酒を飲んでいました。「北海道は人口密度も低いし、ゾンビも凍りそうな冬があるから、まあ夏を越えれば生き延びられる」、「保存食をキープして、家に死角ができないようにして」などと、楽しそうにシミュレーションをしていたものです。

そんな彼がいたから、私は新型コロナウイルスのニュースに敏感になり、「パンデミックになる前に準備して、生き延びるんだ」という、あまりに幼い想像をふくらませ、ただSNSで情報を探るだけでした。有用な情報は何一つなく、何をすべきかわからず、時が過ぎました。ゾンビ映画の多くは発祥の地が米国なのに、実際は武漢なんだなあ、なんて、馬鹿みたいな感想を心の中に抱いていたことも覚えています。

1月末ごろから、仕事の波が押し寄せ始めました。

―2月―

2月は仕事に、趣味に、交際に大忙しの月でした。毎日原稿の締切があり、2月半ばには趣味で参加している合唱団が出演するステージがありました。

仕事と趣味どちらも両立させること、それでいて心の余裕を作ることという贅沢な目標を課した2020年だったから、この2月を乗り越えられるかが肝だ、なんて思いながら日々目が回るような日々を過ごしていたものです。

ちょうど札幌雪まつりの終盤あたりで、若旦那の叔母がフィアンセや友人と共に北海道旅行にやってきました。狸小路の狭い路地にあるジンギスカン屋をお勧めし、みんなで酒を囲み、笑顔でハグしあいながら二次会はカラオケに行きました。義叔母のフィアンセと友人がアメリカ人だったため、つたない英語で一生懸命に話し、笑いました。楽しかった。

彼女たちの住む沖縄でGWに内輪だけで挙式をするから絶対に来てね、と招待され、「もちろん」と答えて別れました。南の国の結婚式はどんなものだろう、と想像しながら飛行機のチケットを検索したっけ。

ちょうどその頃、ふと一息つけたタイミングで、じわじわと「コロナウイルス」のキーワードを見る頻度が高くなっていることに気がつきました。やたらに忙しい日々だったので、頭から飛んでいたのです。そういえば、どうなってるんだ?

船上での悲劇、武漢のその後といったニュースを詳しく調べ、血の気が引きました。私の楽しい生活と同じタイムラインで、1月に単なる話題にしていたアレが、拡がっている。その事実は、私に対して「あまりにも甘い」と、警告を鳴らしているようでした。

でも、その時の私には代えられない予定がたくさん詰まっていました。合唱のコンクールで金賞を取って仲間たちで乾杯した夜、奇しくも旧友が働いているスタートアップ企業の取材依頼が来て、光栄に思いながら向かった東京出張、そしてその旧友の家に泊まって、朝まで悩みを聞いてもらった日。全部、代えられなかった。

2月末、北海道で緊急事態宣言が出ました。多忙な日々のなかで、そこまでの経緯を無視していたかと言えばそうではなかったけれど、正直「そんなのに構っているヒマはない」と言い聞かせ続けていたんです。未来を見ていたかったし、楽しみたかったから。

でも、それは私の日常まで来てしまった。

―3月―

「外出を控えるように」と言われて、特段困るわけではないのも事実でした。私はあえて仕事の具体的な話を発信しないよう心がけていますが、いわゆる在宅ワークで大半の業務を完結できるので、むしろこの事態に左右されない業種であるはず。

2月中に3月の執筆スケジュールはある程度入っていたので、「しめしめ、原稿に集中できる」と切り替えました。ただ、東京出張のスケジュールは軒並み全てがキャンセル。「こういう時だもの、今月は休東京ってことで」と心を落ち着かせながら、東京の会いたい方々へ「落ち着いたら、またおいしいごはんを食べたいです」と送り続けました。

大好きな合唱の練習は、自粛を受けて1カ月中止に。集まる予定はすべて延期に。Googleカレンダーがどんどん真っ白になっていく。

一度だけ、「もう、ねえ、ダーツくらいなら行ってもいいかな」と、自粛期間中に我慢しきれず若旦那を誘った日があります。私たちが大好きだったアミューズメント施設は、自粛期間中閉店していたようです。張り紙と、暗く闇に沈んだ店を見たとき、私は遅すぎる自覚に襲われました。

“特に何の予定もなく”行った街は、閑散として人通りが少ない割に、空気がピリピリと張り詰めている。みんな、口元が見えない。こんな街、私は知らない。ごめんなさい、家から出てごめんなさい。

その日、私は気分が悪くなって、若旦那に「街が怖い」と訴えながら急いで帰りました。吐き気が止まらなくて、頭が粉々に弾け飛びそう。やけに仕事をしたがる感受性を、ここまで恨んだことはありません。

それから、私はいよいよ近所以外の場所に出なくなりました。(だからそうしろと指示を出しただろう、馬鹿かオマエは、と今なら思います。自分の愚かさも、振り返るためにあえて隠さず記しました)

キャンセルになった取材仕事は、「お互いを想って」ではなく、「北海道にいる自分だから危険視されて」なのでは、という被害妄想が頭をかすめ、首を横に振る日々。おかしなところまで、想像が及んでしまうのです。執筆スケジュールと向き合っていれば、私はまだ必要とされているというかすかな手綱を握れているのですが、タスクは少しずつ、減っていきました。

ダンススクールで講師を務める友人は3月のレッスンがすべてなくなったと嘆いていて、若旦那の現バイト先である飲食店もシフトがゼロに。周囲の人たちの日常が崩れていく。私は時々めまいに襲われながら、ただただ一歩も外に出ず原稿を書き続けました。

そうして、3月19日に自粛期間が解除されました。ちょうどこのタイミングで若旦那の就職先が決まり、「内定取消とか言われないかな」と不安がりながらも、精神的な安定が少しだけ取り戻せたと思います。

もう、私は楽観視という逃げ道を作れなくなっていたので、向き合った事実があります。それは、新しい仕事が来ないということ。

ふと私は、ゾンビ映画の話で盛り上がっていたころの自分を思い出します。過去の私たちに言いたい。凍えそうな北海道の冬も、頑丈な家も、ウイルスには効かないよ。というか、日々を守るというのは、そういうことじゃないんだよ。本当に恐ろしいのは、もっと、違うことなんだよ。映画ではパニックのその後は描いてくれていないでしょ、本当はもっと、もっと長い闘いが続いているんだよ。

たくさんの方が世界中で亡くなっているというニュースを目にして、他人事と捉えられないまま受け止めていると、内臓が押しつぶされそうな感覚を覚えます。そして、それから目をそらす口実になる仕事も、少なくなっていく。

―……どうする?

3月の請求書を出し切ったとき、私はフリーになりました。やらなければならない仕事がゼロになるのは、1年半ぶり。

―……どうする?

その答えを出そうとあがくのは、止めました。偶然にもこのタイミングで私に代って(今のところは)生活を支えてくれることになった若旦那に深く感謝しつつ、本を手に取り、庭を耕し、SNSやニュースを見る時間を減らしました。

―4月―

「小説を書く時間が欲しい」なんて言った割には、いざ時間ができてみると何も書けないじゃんか。私は一人、うららかな春の陽ざしを背に受けながら、自室のパソコンに向かって、笑いながら泣きました。わんわん声を出して泣きました。

でも、しょうがないよ。

いま、自分の価値観や美しいと信じるものが揺らいでいく日々のなかで、過去や自分自身と向き合って物語を紡ぐことは、あまりに困難だから。同業の方が「原稿が思うように進まない」とぼやいていて、少しホッとしました。私もだよ(仕事の文章ではないんだけれど)。

朝早く起きて、ごはんを作り、三食きちんと食べて、ヨガをする。眠る。好きな人との会話を楽しむ。お茶を丁寧に淹れて飲む。土を触る。真っ白な紙に向かって、何か一文でも書く。本を読む。

ここらへんが、毎日必ずやること。自分を保つ。そこからしか始まらないし、こればかりは私以外の誰も代ってくれないことだから。

今、何も社会に対して影響力のない私を恨んだって仕方がない。誰かのためになりたいなら、次の時代に向けて時間を無駄にしないことだ。

そう思えたのは、ちょうど昨晩くらいのことでした。その方向に顔を向けるまでに、一週間ほどかかりました。頭ではわかってはいたけれど、心が追いつかなかったんです。きちんと時間をかけて自分を大切にすれば、心は未来に向きあえるようにできているようです。

今まで後回しにしていた「緊急ではないけれど重要なこと」が、一定の時間を置くことで、自らあいさつしに来てくれます。「緊急で重要なこと」が取っ払われた今だからこそできることがあると、信じられるようになります。(もちろん、今「緊急で重要なこと」があるのも事実ですし、それがこの状況下で急激に増えている方々もいる、と理解しています)

私は、宿木屋の事業とお茶を通じて「ひとやすみ」を届けたいという構想を練っていますが、創業間もないためまだ何も準備が整っておらず、今すぐに何かを提供できる状態ではありません。そして、次の時代における「ひとやすみ」は、定義を変える必要があると感じています。

その感覚をたぐりよせながら、どうすれば不安な“今”を生きる人たちに、ゆとりと“未来”を届けられるか考え、それを形にするために必要な知識を吸収する今としよう。そう決めました。今すぐに形にはできないけれど、柔軟に変わりながら、未来に。ビジョンばっかりで地に足がつかない私だったので、今更ですが、お金についての勉強、国や自治体のルールのおさらいなどを進めています。

正直なことを言えば、経済的にはかなり厳しいです。それでも、未来を見ることが、誰かを想うことが、明日の生活をつなぐ心の糧になる。安易な言葉かもしれませんが、誰かを責め、飛び交う言葉に翻弄されるより、よっぽど力になると、私は感じています。

受けられる融資やそれに求められる条件、政府の対応などを逐一調べつつ、前へ。どんな業種の方も、まったく異なる環境で暮らす方も、きっと同じように不安と恐怖を抱えて生きているはずです。各々の状況は違うからお互い寄り添えないけれど、「前へ」と言葉をかけることくらいは、今の私でもできるんじゃないか、と思いました。

そう、思って、思うまでの経緯を振り返ろうと思ったから、こんなにも長い文章になりました。何が軸なのかわからない文章だけれど、ようやく書けた、ある程度のボリュームのある文章です。

約3年間、ほぼ毎日ぶっ続けで仕事・プライベート問わず文章を書いてきた身だから、時間も余力もあるのに「書けない」ことが本当に怖かったんです。でも、ここまで吐き出して、ちょっとホッとしました。未完成でも、不安定でも、読むのに付き合ってくれて、ありがとうございます。

ちょうど、いま、朝日が昇ってきています。ヘッダーの写真が、その様子です。今日が始まります。深夜に目が覚めて、「あ、今、書けるのかもしれない」と布団から起き上がり、ここまで書いて、今、光が部屋にこぼれてきていて。若旦那が布団から顔を出したから、文章を書いたと伝えたら、「読む」と寝ぼけまなこで笑ってくれました。

この日々から、未来へ。そして、これを読んでくださったすべての人に、幸せがあることを願い、幸せを届けられる私になることを誓います。

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