沈黙のしあわせをかみしめて、継いでいく

定期的にゲームを楽しむ場を設けてくれる友人がいる。私にとってその場は、とても居心地がいい。顔を見たことがある人は一部で、それも一度くらい。声しか知らない人もいる。その距離感でも、心がすっぴんのままで居られるからとてもしあわせだ。
私は話すのが得意ではない。というか、誰かが話したいならばその話が優先されるべきと思ってしまうので、よほどテンションが上がったりプライオリティが高い話題があったりするときじゃないと、黙って聴く選択をする。そういう考えが根付いている時点で、もちろん楽しい話なんてほとんどできない。
どちらかというとチャットコミュニケーションのほうが落ち着く。チャットコミュニケーションは平面的だから、基本的には話題の軸が一つしかない。だから誰かの話題に割り込まなくて済む。そのぶんタイミングを読まずに返しやすい。私にとっては、声で話すより指で打って文章を書くほうが心地いいしスムーズなのだ。
仕事の取材が好きなのは、自分が話さなくていいコミュニケーション手段だからだ。自分を理解してもらうより、相手を理解したい。そのために自己開示が必要な場合は、無理に自分を隠さないけれど。あと、打ち合わせやイベントの司会進行も良い。目的ありきで不要な会話が入らないから、チャットコミュニケーションと同じような平面的構造で話の流れを理解し、コントロールできる。
一方、雑談の場は緊張する。雑談はランダムで、複数の話題の軸が入り交じる。誰かが言った一言で、論点が右へ左へ揺れる。飛ぶこともある。それを追いきるのが難しいし、言いたいことをまとめる前に話題が終わってしまう。だから話すタイミングがわからなくなる。学生時代はよく「黙っていると暗いと思われる」とか「おもしろいことを言わないと嫌われる」とか焦って、周囲のことを考えていない言動で無理やり割り込んだものだ。自分の保身ばかり考えているから、そんな歪んだ思い込みを抱いてしまう。
自己都合のコミュニケーションを繰り返して、周囲から煙たがられて、ようやく私は「喋れない」のではなく、自ら「黙る」ことを学んだ。そして、じっくりと周りの声に耳を傾けて初めて、雑談というものを勘違いしていたことに気がついた。雑談に論点も中心も、間違いも存在しない。ただ流れている川の中で、相手という存在が浮かんでは消えていくのを感じるだけの時間なのだ。そんなイメージが浮かんでからは、今まで保身のために話題の中心を陣取ろうとしていた自分を恥じた。
雑談は黙って聴いているほうが安心できる。無理せず、保身に走らず、ありのままでそこに居よう。そう覚悟してからは、複数人の場ではほとんど喋らない。それでも私を受け入れてくれる、そこに居させてくれる人たちがいるんだということを知ってからは、寡黙でいることの不安はなくなった。
沈黙して居られることのしあわせ。かみしめればかみしめるほど、胸が熱くなる。有用なことやおもしろいことを言わなくても、そこに居るだけでいいと思わせてくれる友人に、心から感謝する。
そして次は、私が誰かにとっての「沈黙していて心地いい相手」になりたいな、とも思う。自分で話すのは苦手だけれど、私のように、あるいは私よりもっと、話すのが苦手な人もいるだろう。そういう人がそばにいるとき、なんなら沈黙が続いても心地いいと思える場所を提供したい。そんな目標が頭に浮かんだ。
でも、きっとそういう場は、無理に作るものじゃない。信頼できる人と日ごろから会話を積み重ね、心から雑談や沈黙を愛せる私になることで、いつの間にか達成できる目標だろう。今はまだぎこちないが、一歩ずつ。年始だからか、ちょっとできそうな気がする。今年も周囲の人とのやりとり、一つひとつを楽しんでいこう。黙って聴くことも、自分が話すことも。
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