自分の目が捉えているものを信じて出す

小説を書いていると、よく登場する小物やシーンがある。今まで書いたものを読み返したり、データを整理したりしていて、下記はマジで毎回登場するな、と笑ってしまった。
- たばこ(喫煙シーン)
- ベッド(恋人や夫婦の睡眠、覚醒シーン)
- カーテンの隙間からこぼれる光
- 空模様(だいたい窓から見てる)
- 華奢な男性
こうして並べてみると、自分が影響を受けたであろう過去がありありと思い浮かんで、胸がこそばゆい。どんなフィクションであっても、書き手の心の底の風景は作品ににじみ出る。とくに、どこにピントを合わせるか、どこを風景の中心にするかに、書き手自身の視線が感じられる。小説を読むことは、作家自身を内側から体験する行為とも言える。そう考えると、小説を書いて出すのって、すごく勇気が要ることだ。あと、自分が切り取る風景、進めていく物語を信じられる人じゃないと、「了」にたどりつけない。私はまだその勇気が足りなくて、中途半端に書いては消し、書いては消し、を繰り返している。もちろん、最後まで書ききれた作品もあるけれど。まだまだ。
ところで、押井守監督が映像で表現する犬。めちゃくちゃ愛にあふれていて大好きだ。尾の振り方や視線、耳のなめらかさなんかが手に取るように伝わってくる。物語の骨子にも関わってくることだけれど、犬の「生」がいきいき描かれているからこそ、周囲の人のぎこちなさや作り物くささが際立っていて、犬という存在が作品に与えているインパクトがすごい。ご自身が愛犬家ということが、いい形で作品に反映されていてすごく良いなあと思う。
私も好きな対象、自分に刻まれたシーンを、もっともっと緻密に描いて愛でて、その先に作品全体と結びつくようなかたちを見つけられたらいいな、と思う。
最後に、この話を書くきっかけになったできごとを。
旦那は日ごろの会話で細かな表現を使わない人だけれど、あるテーマのときだけやたらニュアンスが細かい説明をする。う○こ周辺の話だ。トイレから出てくるにつけて今日のう○このコンディションについて話し始めるのだが、その報告の内容がめちゃくちゃ詳細だし、手に取るように伝わってくる。手に取りたくないが。
今日、旦那がトイレから出てきて話した内容はこれだった。
なあなあ、トイレでな、う○こしようと思ったらおならが出てん。丸いおならの中に小さいおならが入ってるみたいな、質量のあるおなら。久々に出たわ。わかる?わかるやろ、あの、ぽんぷんぱーんッみたいに鳴るやつ。でな、そのおならが出たときにな、ち○ち○と肛門のあいだにある陰毛がおならの風速で揺れたんやけど、その揺れ方がいつもと違ってん。なんか妙な感じがしたっていうかな。それで気になってな、確認してん。したら、陰毛同士がな、固結びになっててん!!
めちゃくちゃ笑ってしまって。この人、トイレでおならするだけの数秒をこんなに細かく鮮やかに捉えて言語化できるのか、と。陰毛の揺れ方の違いに気がつけるのか、と。
旦那は作家を目指しているわけでもなければ小説もほとんど読まないけれど、トイレのシーンを臨場感とともに書くことに関しては勝てる気がしない。トイレが重要なキーになる物語だったら旦那のほうがおもしろく書けそう。
私もそんなふうに思えるなんかがあっただろうか。そう思って自分が書いたものを読み返したのだった。とりあえず、よく自分が捉えるものを気軽に表現してみるところから始めてみようと思う。旦那のトイレ報告みたいにね。
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。