Pityman公演「みどりの山」に寄せてーーその風景を目に焼き、まっすぐ生きたい。

私がほぼ毎公演、足を運ぶ舞台がある。
劇団Pitymanの舞台だ。
2020年10月2日、新作『みどりの山』を初日に観に行った。
徹底した感染防止、ソーシャルディスタンスを保った客席。
久々に観る演劇は、いつも以上に緊迫した空気が張り詰めている。
開演前に流れていたのは、その空気とは反したおだやかで爽やかな音楽。
広々とした大自然の中で聴きたいような。
やがてその音楽がフェイドアウトして、照明が落ちる。
舞台は、病院のロビーのような一室。

その空間は、偶然にも私が東京で通っていたレディス・クリニックに似ていた。
空々しいあたたかさを演出する観葉植物や、まあるい受付。
私は交際相手と直接交わっても子どもを産まないために、そこでピルを買っていた。
そして今回の舞台に出てくる人物の多くは、子どもを宿した大きな腹を抱えている。
なぜなら、ここは代理母が出産までの時を安静に過ごすための施設だから。
『みどりの山』あらすじ
代理母滞在施設、通称“母の家”には、依頼を受けて代理母を務める男女が集まる。
医療の発展により、女だけではなく男も帝王切開による出産が可能だ。出産はサービスとして提供されている。穏やかな環境で衣食住を提供され、妊娠と出産を経ることで、収入を得ることができる。もしかしたらそれは、実に好条件な仕事かもしれない。
代理父母たちは、健康な出産をするために規則正しい生活を過ごす。その生活を守るのは施設長とケアテイカーだ。彼らは広がる自然に隔離された施設内で、出産までの日々を共にする。
物語はこの施設にジャーナリストが来訪するところから始まる。生命をビジネスとする施設の実情を取材したいと、ジャーナリストは代理父母たちにカメラを向ける。何気ない会話や施設内の出来事を追う。ケアテイカーは出産を控えた代理父母たちの健康のためにルールを厳守する。

そんな日々の中で、ケアテイカーはある日ロビーの窓からの眺めに対し、疑問を投げかける。
「あそこに山なんてありました?」
その視線は、遠くへと投げられる。
疑問に対し、これまでそこに山があったかどうか、厳密に応えられる人はだれ一人いない。
そもそも興味を深く抱く者すらいない。
ある一人を除いては。
『母』の意味

『母』という役割について、色々な見方と解説ができると思う。
子どもは母から生まれる。
母にとって子どもは自分の体の一部であり、離れていくものだ。
子どもにとって母は、自分を作った唯一無二の存在であり、自分の命を支える。
ここに社会という軸を足すと。
子どもという宝を社会に提供する母は偉大だと言われるかもしれない。
というか、母がいなければ社会そのものが成立しない。
生物学的には『母』は生命の循環の起点そのものともいえるかもしれない。
子を宿し、やがて子が母になり、その繰り返しで生き物は今も生き物であり続ける。
厄介なのは、この『母』という役割は現状、性別上『女』にのみ課せられていることだ。
男女がそろって行為を経なければ子どもが生まれないように我々の体はできているけれど、
出産して『母』になることができるのは、現状女だけ。

この厄介なルールが、女を縛り、女を苦しめ、女を女たらしめている事実がある。
舞台上で、出産や母の存在を「神秘的だ」、「面白い」という男が登場する。
私は内心「うるせえ、黙れ」と、その人物に叫んだ。
おまえらに何がわかる、と。
この感情の根源こそ、私が女である証なのだろう。
でもこの舞台では、男も出産することができる。
だから、その男に、妊婦である女は「どうぞ。できますよ」と返す。
「しないよ。普通こんなこと。」
その一言を彼女が言ってくれたことが、私にとっては救いだった。
女は『母』という役割を認識せずにこの世界に存在することができないと思う。
『母になりたい』と願ったとしても、『母になりたくない』と願ったとしても。
その残酷な事実を、私たち女はどう受け止めて生きていくべきなんだろうか。
その問いを、男も女も同じ重さで考えられる日は、いつか来るんだろうか。
未来の医療が発展して、出産が男女平等なものになったとして……。
そのIFに、やっぱり残酷なまでのリアルを描いているのが本作だと思う。
『仕事』の意味

もうひとつ、私が本作で問いかけられたのは『仕事』の意味だ。
人々の課題を解決する事業を生み出し、提供すること。
収益を上げ、経済発展に貢献すること。
企業としては、そうだろう。じゃあ、働く一人ひとりの労働者は?
その事業の一部として、やはり社会に貢献していくこと。
そんな自分自身に誇りを持ち、やりがいを見出していくこと。
自分の生計を立てていくこと。
こんなところだろうか。
じゃあ、人々の課題解決に貢献できるなら、自分がやりがいを持てるなら。
例えば、子どもを産み、誰かに金と引き換えに提供することは、正しいのだろうか?

この問いへの答えは、舞台を観た一人ひとりが自分の心の中に持てばいいものだと思う。
加えて、ビジネスモデルや事業内容の部分を差し替えて、常にこの問いは持ち続けなければならない。
私たちが今向き合っている『仕事』は、果たして正しいのだろうか?
そんなこと関係ない、お金をもらえればそれでいいでしょ。
それもまた一つの意見だ。間違ってはいない。
でも、全人類の私利私欲のための『仕事』がいつしか何かを変えているかもしれない。
例えば、ありもしない山を風景に出現させてしまうかもしれない。
でも、もしかしたらそこに山が増えたことにすら気付けないかもしれない。
それって、とてつもなく怖いことじゃない?
その違和感に気付ける人間であり続けたいと、私は願ってやまない。
山下さん、見えました。

ところで、私はこれまでPitymanの舞台を観に行っては、舞台の感想を言語化している。
いつも心にガスッと鈍いパンチを入れてくれる演出家の山下さんへのラブレターだ。
いつだったか、どこかのカフェで山下さんとお話する時間をいただいた。
色々と話したが、その中でこんな会話をしたことを覚えている。
私は「2020年のオリンピック開催前に、何がなんでも北海道に移住したい」と話した。「きっと2020年以降、東京は衰退していくから。その前に穏やかな場所に身を置きたい」と。
そうしたら、山下さんは笑ってるんだか笑ってないんだかわからない凪みたいな表情で、「たしかに……でも、僕はそういう東京も見ておきたいな。それはそれで面白そうだから」と言っていた。(正確な言葉じゃないかもしれない……録音してなかったから。ニュアンスが違ったらごめん、山下さん。)
衰退していく世界を、冷たいけれど芯はじんと熱い目で、山下さんは観察するのだろう。そしてそのときに見た世界や人々を、また新しい舞台で描くのだろう。私はその舞台を楽しみにしていよう。そう思っていた。
そこに来た、コロナショックである。誰も予想していなかった衰退……いや、停滞、あるいは新しい時代への準備が始まった。
そもそも演劇という芸術そのものが死んでしまうのではないかという恐れを抱きながら、私は願いどおり逃げた穏やかな北国で、遠く東京のニュースを、それこそ舞台上の出来事のように眺める日々だった。
今回、私はコロナ禍以降、初めて飛行機に乗った。山下さんの作品を観たくて。
そうして私は観劇を通じて、山下さんからのアンサーをもらった気がする。
壊れた世界の先に広がる風景を。
山下さん。
フェイスシールド越しに笑顔で手を振ってくれた姿を忘れません。
言葉を交わさずとも、きっと伝えたかったことは伝わっています。
(でも、またたくさん話したいです!いつかまた会う日まで。)
ぜひ観に行ってほしい
さて、ここまで読んで「こりゃあ気になる」と思った方。
ぜひ観に行ってください。とにかく観に行って。
最後に。
そもそもPitymanとの出会いをくれた、大口くんに感謝を。
彼はいつだって私の『好き』に応えて、新しい発見をくれる。
この記事で使わせてもらった写真も、彼の目がとらえた美しい瞬間です。
写真提供:大口葉
※本投稿は、旧ブログにて公開されていた記事を移管したものです。内容は当時のまま編集しておりません。
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。