だから今日も書く

エッセイ

文章を書くことと絵を描くことは、本質的には同じことをしている。物事や風景、相手や自分自身と向き合った結果を残しているのだ。形にして残すと、対象と向き合った深度や想いがわかりやすい。それにあとから見直して、自分の感性を客観視できる。この繰り返しが、世界を鮮やかにするし、他者との関係性を豊かにする。自分自身と世界を、歪みなく理解するきっかけが生まれる。

だから私はこの世の誰もが文章を書いたり、絵を描いたりすればいいのになぁ、と願っている。何かに対して自分が真剣に向けたまなざしをただ形に残すだけで、感性が鍛えられるからだ。もしも全人類が文章か絵か、あるいは他の何らかの表現に夢中になったら、きっと世界はずいぶんと良い方向にひっくり返ると思う。

表現はいつでも誰でも自由に始められる。だから文章を書いたり、絵を描いたりする人がとくべつ偉いわけではない。ただ好きで選んで、自ら表現している人たちだ。くれぐれも文章を書いたり絵を描いたりする自分に酔ってはならない。

むやみに“作家”だの“アーティスト”だの肩書きを看板にして立てる必要もない。そうやって名乗るのは、表現のプロとして生きている人たちだけで十分だ。それはほんのひとにぎりの、尋常でなく研ぎ澄まされた感性と、磨き上げた技術をもった、努力を惜しまぬ人たちのことだ。

私はかつて東京藝術大学を卒業した。あの大学で出会った人たちは、自分と同じ世界を見ているとは思えないほど、感性が優れていて聡かった。仲間に対等で厳しく、優しかった。あそこで自分の矮小さと感性の乏しさに愕然とし、自己嫌悪と羞恥心にまみれた日々は、何者かになりたい欲に縛られ、表現を小手先で繰ることの馬鹿らしさを私に教えてくれた。

当時何者でもなかった(あるいは今も何者でもない)彼らの作品は、いずれも凄まじかった。ささいな会話をしていても、自分の何倍も緻密に、あるいは広く、世界が見えていることを思い知らされる。私以外の誰もが、自分が何者かなど気にしていなかった。そういう仲間たちに囲まれて、今振り返れば幸せだったけれど、当時の感性では不幸だった。

だから私はしばらくの間、自分自身が文章を書いたり、絵を描いたり、音楽を奏でたりするのを辞めてしまった。はっきり言って、そんな理由で辞めること自体がいま思えば馬鹿らしい。すべて間違えている。

改めて思う。私も含めてみんな書けばいいし、描けばいい。撮ればいいし、奏でればいい。それで何者かになろうとするから本道から外れる。表現するために世界と向き合うことのほうがよっぽど重要なことだ。自分がどう見えているかなんてくだらない想像をし忘れてしまうくらい、世界に集中する時間のほうが、よっぽど。

何者でもない、無色透明の私たちが、やはり無色透明の相手や世界に目をこらして、言葉や色を手繰り寄せる営みこそが、世界に色を与え、世界の物語を紡ぐのだ。自分のためだけに肩書きを弄んで特別になろうとするな。そんなことのために表現するのでは、世界の半分も感じられない。

そう言い切れるのは、私自身が経験し、反省したからだ。いま、私の目に映る世界は、昔より少しだけ鮮やかで、繊細で、複雑だ。それを少しでも伝えたくて、今日も文章を書き、やはり正確には伝えきれないなぁと首を捻って、目を凝らす。明日見える風景が、今日とはまた違う言葉を私にくれることを願いつつ。

そんな日々を重ねていきたい。だから今日も書く。

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