いつかキーボードがなくなる日が来ても

エッセイ

音声メディアや話すプラットフォームへの注目が高まっている。市場規模も年々拡大しており、ライブ配信市場とあわせれば、インターネットにおけるコミュニケーションの手法は大きな転換期にあると言えるだろう。

また、5Gネットワークの普及は動画・音声コンテンツの提供・視聴のハードルを下げる。PCで大仰な機材をそろえずとも、今ならスマホ一台で動画や音声を発信・編集することが容易い。こうした技術的な進歩もこのトレンドの追い風となっている。

こうした時代の変化の影で、テキストコンテンツへの需要低下についての不安が頭をよぎる。少し話がそれるが、下は私が大好きな雨血さんが出していた「INTERNET WRITING MAN!!」のMVだ。

【MV】INTERNET WRITING MAN!!

すべてのウェブライターに敬意をこめて

ライターの悲しき性を歌った曲だが、歌詞の一節である「WEBサイトの客層は老境 酔狂 同業」には深くうなずくとともに涙ぐんでしまう。

WEBライターと一言で言ってもあらゆる領域があるが、なんらかのWEBサイトに掲出される文章を書いて稼ぐという点ではみな同じだ。そこに読者が一人もいないことが証明されれば、我々は廃業する。

デジタルマーケティング領域におけるテキストコンテンツへの需要低下は、WEBライターの存在意義そのものに関わる一大事だ。であるのにも関わらず、ライターは最近「大人がなりたい職業」として注目されているらしい。需要と供給がまるで合っていない。数年後の我が身を想像して慄えるばかりだ。

こうした流れの中で、いつの間にかライターから配信者になった者もいる。編集という括りでスライドしつつ、手法を問わずコンテンツ制作に励むクリエイターとして巧みにブランディングの舵を切った姿もたびたび見かける。

しかし、私はいまだリアルタイムコミュニケーションの一歩を踏み出せない。Twitterの上部に並ぶ開催中のスペースを見るたび、誤ってタップしてしまわないか恐れている。動画も観るのは好きだが、自分が喋ろうとは思えない。

タイムラグがあって、解釈の幅があって、編集の余地があって、データサイズこそ軽けれど心的な質量はどっしりと感じられるテキストコミュニケーションの中でしか、私は生きていけない人間なのだろう。

リアルタイムに行き交う膨大な量の動画・音声コミュニケーションはきっと近い将来、一般化する。オンラインに常駐した人々は未編集の情報をシャワーのように浴びながら、縦横無尽に世界とつながっていくのだろう。

そして自分自身の感情や思想を未編集のまま出すことへの恐怖心や違和感も薄れて、自分のコアがむき出しになっていく。その一方で、そのむき出しのおぞましさをオブラートに包むためのバーチャルアバターが普及する。そういえば最近はメタバースなんて言葉をひっきりなしに聞く。そうか、そういうことか、とメタバースの説明を自分のイメージで解釈して納得する。一般的な定義とは異なるから「これぞメタバース」とは言わないだろうが、私は私の中で咀嚼し、今書いたような文脈で言葉を理解する。こうした営みもまた、文章独特の紛らわしさであり、主体性だ。

私はこれからデジタル世界の表現手段におけるロートル、ある意味でのマイノリティになるだろう。「うちのおじいちゃん、いくら便利って言ってもスマホ使わないのよ」と同じように、「なんでいつまでも時間書けて文章なんて書いて出してんだろうね、喋れば一発なのに」と、ため息をつかれる側に回るのだろう。

いつまでも柔軟ではいたい。異なる世代に対して要らない境界線も引きたくない。古い価値観も新しい価値観も混ぜた自分でいたい。でも、自分に合った手法、自分が自分で居られる領域は、そう簡単には変わらないと思う。メインストリーム、最先端にはこの先いけないかもしれない。それでも、私は文章を読む時間、書く時間、その間にある余白と選択肢、無言の対話を愛してる。その不器用さを認めて少し照れ笑いしながら、これまで通りに書き続けようと思う。

関連記事一覧

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。