孤独の海に溺れるただ一人のために投げ込む2万字のボトルメール

1 あの人との出会い
2019年6月、地元開催のライター交流会が行われた。私は地元在住ライター兼お手伝い役として主催側と連携し、イベント準備をした。もちろん自分のアカウントでも開催告知を頻繁にした。多くのひとに来てほしかったし、地元で同業者とつながれる場を心から楽しみにしていた。
そういういきさつで初めて開放したDM宛に、ある知らない人から連絡が来た。
「ライターじゃなくても参加できますか?」
その一言から、さまざまな想像が巡った。これからライターになりたい人なのかな。ゲストに興味があるのかな。近くに住んでいる人かな。アカウントのプロフィールやタイムラインを読み込んで、その人の趣味や性別など、簡単な背景を頭に入れてから、返信した。
「ご連絡ありがとうございます。もちろん、参加できますよ。もしもこれからライターになりたい方なら、何かしらいい出会いがあると思います」
そんな返信をしたと思う。それに対する返信はなかったが、予約は入っていた。
予想以上に多くの人々が来場することになり、イベント準備や企画は本格化した。来てくださる人たちに楽しんでほしかったから、予約を何度も確認し、来場者全員にとって楽しめる場になるようシミュレーションを重ねた。前日席を用意するとき、ライターではない“あの人”がプレッシャーを感じない配置がいいのかな、なんてことを考えた。当日受付を担当し、来場した人たち一人ひとりにあいさつした。自分が登壇する時間ぎりぎりまで粘って、入口で待っていた。
でも結局、“あの人”だけが来なかった。何の連絡もなく。そのときから2022年になる今まで、私はその人のことを、ずっと、ずっと無視できない。
2 忘れられた私
交流会終了後、参加したメンバーでSlackのワークスペースを立ち上げることにした。主催側の一員であった私は、「交流会参加者の方でSlack参加ご希望の方は~……」という書き出しで、Slack参加の誘いをSNSに投稿した。
すると当日来なかった“あの人”から、「参加したいです」と連絡が入った。条件に合っていないどころか当日ドタキャンしておいてよく希望できるな、と呆れた。
私は条件を満たしていないことを説明し、相手が失礼だと思わないよう配慮しながら、丁重に断った。それに対する返信はやはりなかった。一応書き添えておきたいが、これら交流会の準備や事後の諸々を、私は仕事の合間にやっている。決して暇ではなかった。そういう中でやりとりするメール一通一通の重みを軽んじられることは、相手の印象を大きく左右する。私はこの時点で、“あの人”に対して明確な怒りを感じた。
その半年後、あの人からまるで何もなかったかのように「相談があります。どうしたらライターになれますか」とDMが来た。思わず机を叩いてしまったのを覚えている。また、おまえか、と。
何一つ罪悪感がないところに加え、「どうしたらライターになれますか」という質問にも疑問を隠せなかった。私は独立して以降、一度もその質問を他人にしたことがない。自分自身には問うてきた。どうしたらライターになれるか、ライターでいられるか。すなわち、どうしたら文章を通じて価値を提供し続けられるか。自分の提供価値とは何なのか。そこを自分で考えられなくて、どうしてその道のプロが務まるのだろう。
そういう質問を平然としてしまう人が、私はもともと苦手だ。冷たい言い方だが、双方にとってメリットがない愚問だなと思う。たとえ質問者が他人が教えたことをなぞってライターを名乗れたとして、そのあと自立もできるまい。答えるこっちも忙しいし、他人の正確な答えなど導き出せない。その質問に対応するために思考を巡らせるこちらの時間と配慮を想像していない時点で、質問者はフリーランスとしての生存率が低い。ビジネスにおけるサバイバルセンスがないな、と感じる。
それでも私は、そのDMを無視しなかった。というか、できなかった。根が冷たいのがコンプレックスなので、冷たい自分を知りもしない他人に出すことに抵抗がある。「まず自分の好きなことについて文章でも書いたらいいんじゃないですか」とぞんざいな答えを送った。私の中では塩対応の極地だったので、もうこれ以上関わらないでほしいと願った。
さらに一年後、「はじめまして、ライターさんですか?」と同一人物からリプライが飛んできたとき、「堪忍袋の緒って切れるんだな」と思った記憶がある。まじで脳の血管が切れた気がした。
何層かの怒りがミルフィーユのように重なった。まず私は、当時プロフィールにライターと書いていたし、記事をせっせと書いていることはタイムラインを見れば一目瞭然だ。それなのに「ライターさんですか?」ってなんだよ。ラーメン屋の暖簾をくぐって「ここ、ラーメン屋?」って訊いてんのと同じくらい酔狂だぞ。それに加え、検索をかけてみれば、同じ言葉をあらゆるライターに送っていることがわかる。相手のことなど確認せずに、自分のことしか考えずに連絡しまくっていることが如実にわかる。そしてもっとも私の感情を逆撫でたのは。
「はじめまして、ではないですよね」と、私は震える手でキーボードを叩いた。
私は、あなたを覚えていますよ。交流会をドタキャンされた日からずっと。それなのにこれまで一方的に連絡し続けてきたあなたは、対応時間と配慮を搾取され続けてきた私のこと、覚えていないんですか?
しかし、そんな私の怒りをよそに、あの人のリプライが着地したのは「このアカウントをフォローしてください」というメッセージだった。
私はこの時点で当該アカウント、及び同一人物が運用していることが明らかだった複数アカウントを全てブロックした。仮にこの人と相互フォローになったとして、私はこの人を好きにならないだろうし、向こうも私を個として覚えることなどないだろうな、と悲しくなったからだ。
2.5 私があの人を無視しなかった理由
一度、箸休めのために現在に話を戻す。2022年現在、私はありがたいことに信頼できる友だちに囲まれている。その友だちにこの過去を話すと、だいたい笑ってつっこまれる。
「ヤバい人ほどブロックじゃなくてミュートしたほうがいいですよ」
「いや、だってどう考えたって“ふつう”じゃないんだから、まともに相手したらダメダメ」
それもそうか、とうなずいてしまう。私は友だちと話していくうち、「そういえば、どうして私はあの人を無視できなかったんだろう」と考えるようになった。
考えてたどり着いた答えが、ふたつある。
ひとつは、昔の自分が重なるからだ。
学生時代、私は人間を“影響力”としか認識できず、自分が“学校で孤立しない”方法しか考えていなかった。故に、相手を理解する気もなく、配慮に欠けた発言を繰り返し、強引にヒエラルキーのトップに立とうとしたから、結果として孤立した。嫌われて当然だった。
あの頃の痛々しい孤独を乗り越えて、私は『相手を想像する』スキルを遅ればせながら身につけた。今でもときどき気を抜くと、あの頃の自分が顔を出しそうで怖い。ようやくわかりあえた仲間を、また自分の身勝手さで傷つけたくない。その一心で、配慮ある人間であろうと努力している。なれているかは、いつまでも自信がない。
あの人の行動を見ていると、昔の自分を思い出す。私はあの頃、周囲に拒絶されて、孤立して、ようやく「自分が悪いのか」と気づけた。できれば同じように、拒絶から自分の行いの身勝手さを学んでほしい。そんなおこがましい願いが、私の心のどこかにあったのだろう。これについては、自分が悪いと思っている。無自覚であっても、他人に自分のフィルタを通した期待をかけるのは本当によくない。
もうひとつは、無視は拒絶以上の拷問だと思っていることだ。
この世で一番恐ろしいのは、自分以外誰も自分を認識できないことだと思っている。誰からも名前を呼ばれず生きるなら、いっそ死にたい。
だから、社会から「ない」ことにされる領域とその領域に生きる人々について考えることが多い。それでも勉強不足で配慮のない言葉を使ってしまうこともあるが、できるだけ「ない」ことにされがちな領域に配慮した行動や言動を心がけている。
一応付け加えておくと、これはマジョリティ的な偽善や配慮ではなく、私自身がいつだって透明になり得る側の人間だと自覚している故の保身だ。誰一人として透明人間になってほしくない。そんな恐怖は伝染してほしくない。
でも、これは決してすべてを受容するという意味ではない。カテゴリで無視しないし、カテゴリで過度に護らない。だから全員、個として扱う。その上で、自分の判断基準に応じて受容と拒絶の線を引く。
今まで友だちが話してくれたことを否定する気はない。ただ、あくまで個人の姿勢として、私は「ヤバい」「“ふつう”じゃない」ことだけを理由に、あの人を透明人間にすることができなかったのだ。それを自分がやってしまったら、私だって「ヤバい」「”ふつう”じゃない」ことを理由に透明人間として扱われて何も言えなくなるのが怖い。
「ヤバい」ことは抜きにして、あの人は私にとって失礼だった。だから拒絶した。認識している上で、行動を見て拒絶する。歪んだ考え方かもしれないが、拒絶は私なりの優しさだった。
3 忘れさせてくれないあなた
そういう自分の感覚だけで行動したことが、甘かった。
Twitterのアカウントをブロックした後、今度はFacebook、InstagramなどあらゆるSNSに、あの人からフォロー申請が来た。相手からブロックされていると知っていて、なぜ平然と申請できるのか意味がわからなかった。想像していなかった行為に混乱し、恐怖を感じ始めた。はじめは申請を蹴るのみにとどめていたが、何度も何度も申請が来るので他SNSでもブロックせざるを得なかった。
それだけではない。私が当時参加していたクローズドコミュニティがある。大学時代の友だちが立ち上げたもので、参加メンバーのうちライターは私ひとりだ。今まで交流のなかった人たちが集う場で、離れ小島のような居心地の良い空間だった。私がそのコミュニティに関しての感想をSNSに投稿してまもなく、そのコミュニティにあの人が何食わぬ顔で参加してきた。明確に「つきまとわれている」と確信し、逃げきれないという絶望に打ちひしがれた。私は、どこに居てもあの人と顔を合わせなければならないのか。あの人を受け入れるしか選択肢がないのか。嫌だという気もちを無視され続け、それでも嫌だと思い続けることで、自分自身の心が傷ついていく。はっきり言って、どうでもいい相手のことなど1ミリも考えたくない。なのに、忘れさせてくれない。いつもそこにいる。蝿の羽音が常に耳の裏から聞こえてくるようなむずがゆさがあった。
でも、「やめてください」と言えなかった。単純に直接連絡するのが怖かったのもあるし、「偶然」という乱数を捨てきれなかった。私が過剰に反応しすぎだと一蹴されたら、何も言えない。「偶然」見つけたコミュニティでした。「偶然」フォローしたらあなたでした。ゼロとは言えない以上、私が考えすぎなのかも。そう言い聞かせつつ、近しいところにあの人を感じたら、自分から身を引くようにしてきた。
それでも、近しい友だちがあの人とSNS上で会話するのを見かけてしまう。無視しても見えてしまう。それを私はどういう気もちで受け止めるべきか、友だちに忠告すべきか悩んだ。こんなことを考えているなんて、私はまるであの人から周囲を遠ざけようとするいじめっ子みたいだ。ダメだ、あの人が他者と親交を深める権利を奪ってはいけない。だから私は静観しよう。悩んでそう決めた矢先、その友だちから「最近よくわからん人から連絡が来て困ってるんだけど、ライターだって。もしかして雪樹ちゃんの知り合い?」と相談された。ああ、やっぱり先に言っておけばよかったのか。というか、私の友だちだから迷惑をかけてしまったのか……?
居ても立っても居られず、私はあの人のSNS上の行動、リプライしている相手などを確認するようになった。それでわかったことは、相互フォローという表面をなぞって見える私の人間関係を、あの人もトレースしていたことだ。もちろん、「偶然」同業のライターだから同じ界隈の人を多くフォローしていたのかもしれない。では、なぜ私の大学時代の友だちも?なぜ私が好きな作家さんも?なぜ一部しか知らないはずの友だちの鍵アカも……?見れば見るほど、到底「偶然」とは思えなかった。
さらに半年ほど経った頃、あの人の言葉遣いが変化していた。ロートルな顔文字の乱用は息を潜め、語尾に「……」を多用したり、「○○さん」とはじめに呼びかけたりしていた。それは、当時の私が意識的に相手に柔らかい印象を与えるよう設けていたルールそのものだった。何もかもコピーされていくような気持ち悪さ、それを見たくなくても見えてしまう距離感。気のせい、気のせい、偶然、偶然。そうやって願掛けのように繰り返して、心が壊れていった。
私は過剰なのだろうか。自分の性質の“せい”にするのも限界だった。これらを全部、全部スルーしなければならないのか。これからもずっと。それを考えると、自分が消えたほうがよっぽど楽だと思え始めた。
いま振り返れば、この時点で冷静な思考などできなくなっている。『ツキマトウ』(真梨幸子著/角川文庫)というストーカーをテーマにした短編集を読んだおかげで、初めて自分の心理を客観視できた。あの頃の私は、つきまとわれている恐怖から過剰な自己防衛本能が働き、つきまといにつながるあらゆる事象に過剰反応し、自滅の一途をたどっていたのである。
でも、これについてはあの人のせいじゃない。私の弱さのせいだ。何があっても堂々としていればいい、だって私は私だ。私が培ってきた信頼や人間関係、私の魅力は、私のものだ。そう胸を張れたらよかった。でも、私はそこまで自信がない。だから、あの人が怖くてしょうがなかった。私は脆い心根のせいで、被害者視点でしか物事を考えられなくなってしまった。
3.5 トレースする人、される人
また少しだけ、小休憩する。こうして振り返るだけで、胸が苦しいからだ。現在の話をしよう。
つい先日、著名なイラストレーターの販売作品の一部が、既存の写真のトレースであったことが発覚した。ネットニュースで話題になっていたのでSNSをチェックしていたところ、第三者から興味深い疑問が投げかけられていた。
「なんでトレースってそんなに悪いの?その絵がいいと思ったならそれで良くね?」
オリジナルとは、自分で考え、努力や研究・経験を重ねて、ひとつの方法論を導き出し、それを形にすることだと思っている。写真や絵などの創作に限ったことではない。また、新規性の有無すらも関係ない。そこに当事者の思考と時間が介在しているかどうかが重要だ。だから、オリジナルの真価を語れる人は、プロセスの価値に焦点をあてられる人だと私は思う。
当該イラストレーターが描いた絵は、既存の写真を反転したり、配色を変えたりしている。しかし、その一枚の美しさを決定づける構図や全体的な絵づくりはそのままだ。きっと当該イラストレーターは、「美しい」「かわいい」と感嘆して、まっしろなキャンバスを写真の上に重ねたのだろう。そこに悪意はない。しかし、そこまで自分を感動させた他者が、その美しさを見出すまでにたどったプロセスを想像できない自分の感性の鈍さは、もう少し自覚したほうがいい。
あの人もまた、これまで綴った行為におそらく悪意はない。あの人自身が綴って公開しているエッセイ的なものの中でも、「私はただ皆さんと仲良くなりたいだけ」と訴えている。「すごい!」「一緒に仕事したい!」と思った人に熱烈なアプローチをして、関連する人をフォローして、やりとりして何が悪いんだ。そういう言い分だろう。
またあの人は、特定の講座を受講したり、同一のコンサルを受けたりと、複数人が共通の肩書きをもてるグループがあった場合、そのグループごとトレースしようとする習性がある。その習性はメディアや出版社にも波及している。記事という商品を通じて媒体や版元に貢献するのがライターだと思うのだが、記事を出すことでそのメディア名や社名の冠をかぶれる自分に重きをおいているように見えてならない……。そう思ってしまうエピソードのいくつかを、そういうアプローチを受けた知人や編集者から聞き及んでいる。たしかに数年前のボットのようなコピペ戦法はやめたようで、アプローチの文言はちょっとずつ変えている。でも、結局「その輪の中に入れてくれ」「私とつながってくれ」「私にも同じ冠をくれ」というエゴイスティックな行動の根幹は以前と何一つ変わらない。
あの人がやっていることは、罪ではない。悪意もない。じゃあ何が悪いのか。一番は、トレースする対象へのリスペクトがないことだ。絵と同じで、練習のために自分の中でトレースする分にはいい。でも、それを強要して公開して、あたかも自分も同じ仲間です、同じ仕事をしていますと自分のために発信するのは、それまであらゆる努力を重ねてきた人々と実績に対して、極めて失礼ではないだろうか。
人間関係を構築すること、実績を重ねることは、本当に難しい。ひとにぎりの成功の影には、いくつもの失敗がある。そもそも現在進行系で生きている人たちにとって、成功の実感なんて薄いんじゃないか。ただ仕事があって、そこに交わる人がいて、真摯に向き合って全力を出し切った結果が次につながる。そんな感じじゃないか。私だけなのかな。
その道程を走る人々がSNSに残していくほんの一部の交友関係や実績を必死でトレースしたって、裏側にある語らない痛みや努力、公に見せない本音で語り合う姿は、知ることができないだろう。私は結果からこぼれ落ちる、そういうプロセスのほうがよっぽど大切だと思っているし、そこにある自分のオリジナルを誇りに思い、他者のオリジナルを尊敬している。
今回ネットニュースを見ていて、トレースした側の苦難についても想像した。トレースした側は周囲の目を誤魔化せるから、周囲の評価と実力にギャップが生じていく。そのギャップが明るみに出るのが怖くて、評価を下げないためにトレースし続けなければならない。そういう観点で考えると、トレースされる側よりトレースした側のほうが、持続的な心労は大きいかもしれない。だから、かのイラストレーターは、炎上してトレースの荷をおろすことができるなら、ある意味ラッキーだったかもしれない。それよりも、トレースしていることを誰からも気づいてもらえないほうが、よっぽど苦しいだろう。いつまでも本質的なオリジナルの価値には気付けず、トレースにばかり時間を割かれるのだから。
4 猛攻
2021年、私が編集を担当していたメディアの編集長から、あの人から営業メールが来たと連絡が入った。こつこつと運営していたローカルメディアで、まだ知名度も低い。ライター募集もかけていないのになぜか営業メールが来たと、不思議がりながら編集長は「この人知ってる?」と私に相談した。
もう、これ以上は引けない。SNSならまだしも、編集しているメディアだ。私のほうで身を引けない。連絡が入ったとき、体が震えた。私は編集長に、今まであったことを伝えた。でも、ここに書いてきた内容をすべて正確に伝えることなど到底できない。「自分が過剰に反応してしまっているだけかもしれない」という不安もある。かいつまんで説明し、「とにかく私はその人の編集を担当できません。もしライティングを頼むなら、私を編集から外してほしいです」と、謝罪と懇願を送った。
事情を察し、編集長側から断りの連絡を入れてくれた。が、そこに「SNSでの行動が不審という情報もあり」という一節を入れてしまったらしい。それが、あの人の逆鱗に触れた。
あの人がしたことをここから振り返るが、先に言いたいのは、ここに事実を明かすからといって私はあの人を責めたくないということだ。どうしても書かないと、そのあとに伝えたいことが伝わらないから、最低限書く。それを踏まえて読んでほしい。
営業メールを断った数日後から、複数の取引先や連携団体から連絡が来た。『宿木屋と取引するのをやめろ』といった内容の電話があった、と。そしてその一部では、私と編集長の名が並べられていた。その編集長は特定の地域に根ざした活動をしている方で、その地域に根強く関わる団体に対して名を挙げてクレーム電話を入れられたダメージは、私以上に大きかった。たとえその内容が事実と異なるとしても、そういう電話をされたという事実は地元に広まってしまう。こういう問題に対しては、都心より地方のほうがウェットだ。主に編集長が事実説明と対応に追われた。私は私で、四方から飛んでくる事実確認に対応する日々が始まった。私のせいで編集長に迷惑をかけてしまったことで、胸が押しつぶされそうだった。
また、同時期に知人から、私の名が入ったよくわからないDMを受け取ったと連絡が来た。私や、私のほか複数のライターさんが名前を挙げられ、あの人を複数人で貶めようと画策しているという物語が、DMで回っているようだった。DMを送られた対象は、ライターだけでなく、関連する他業種の方もいた。
内容を共有してもらうと、断片的なSNSの情報を結んで被害者的フィルタで切り貼りしたらそう見えるかもしれない、というものだった。それを「嘘つき」と責めることもできるが、もう少し解像度を高くするならば、「臆病者の勘違い」とでも言いたい。これについては私自身、あの人のことが怖くて被害者的視点からあらゆる推測をしたから理解はできる。
ただし、私の場合は自分が立てた推測が事実かどうか判別できなかったから、とうてい不特定多数になど言えない。内輪での注意喚起が限界だ。一方、あの人は事実と断定して不特定多数にDMで送ってしまったので、その点で大きな差があるとは言っておきたい。
私はこの一連の出来事で、どれほど自分の名を出した架空の話が流布されたのか、正直今でも正確にはわかっていない。知りうる限り、対象は取引先、知人、それ以外にも及んでいる。電話やDMを通じた突然の連絡、共通しているのは『宿木と取引(関係性)を断て』とか『あいつはライター業界のゴミ』とかいう表現。私にそれを報告してくれたのは一部の人だと思うから、私の知らないところではもっと広まっていると考えるほうが自然だろう。
もう、誰と話したらいいのかわからなかった。誰が自分を信じてくれるのか。知らない人がすでに私をゴミと認識していたら?というか、実際私はゴミなのかもしれない、自分が認めていないだけで……。周りが歪んで見えて、吐いて、泣いて、もはや何に対してかもわからないけれど謝って。めまいが止まらなかった。
それでも通常通り原稿の締切は迫ってくるし、生活は止められない。こういう誹謗中傷の中に名を挙げられた人は、名を挙げられたことで情報が集中する。昼夜問わず、心配や厚意も含めて連絡がやまない。眠れなくて、思考がまとまらなくて、呼吸するのがしんどくなった。死にたかった。これまで培ってきた信頼が、これで壊れてしまったのか。頑張ってきたのに。
じゃあ私はどうすればよかったんだ?営業メールを快諾すればよかったのか?過去あれだけ嫌な思いをしておきながら笑顔で取材同行し、あの人の書いた文章とにらめっこして記事を編集すればよかったの?そしてあの人のSNSで「書きました!」「宿木さんが編集しました!」ってうれしそうに言われるの?想像して「無理」と首を振った。それなら死んだほうがましだ。
自分の中にあるたしかな拒絶が、爆発した。無視され続けてきた私の意志が、押し寄せた。私はこのとき、パートナーにだけ燃え盛る感情を全部ぶちまけて、泣きわめいた。自分ではあまりに感情が高ぶりすぎて何を言ったかほとんど覚えていないのだが、後からパートナーが教えてくれた一言がある。「よくも、私が大好きな私を奪いやがって。私は誰かを憎む私が大嫌いなんだ。この野郎!」と叫んでいたらしい。
「そうやって自分のこと好きだの嫌いだの言って泣けたりするところ、俺は大好きよ」と言われて、私はようやく、ニュートラルに戻った。
いいか。誰がなんと言おうと、私はゴミじゃねえぞ。
でもね、同時にね。私をゴミと言ったあの人も、ゴミではないよ。
5 対面
冷静に私のところに寄せられてくる誹謗中傷の情報を並べてみると、内容があまりにも支離滅裂で陳腐だった。私にとっては幸運なことだが、あの人の立場に立って信じてくれる人は意外と少なそうだ。実際、取引先の多くは迷惑電話として弾いていたそうで、内容も細かには受け取られていなかった。「誰も雪樹さんのことを疑ってなんていないよ、自信をもって」と言われるたびに、安堵する一方、これだけ全力で叫んでも何一つ受け取られない、あの人のことを想像するようになった。
私だって、追い詰められれば異常な行動を取る。泣きわめく。ただし、それを吸収してくれるパートナーや友人がそばにいるから、公には出さない。こんなにボロボロになっていた渦中でも、取引先には「大丈夫です」と気丈な顔を見せていた。でもそれは、裏で話を聞いてくれる、応援してくれる編集者さんや仲間がいたからだ。
――あの人は、そういう人、周りにいるのかな。
私はそんな想像をしつつ、あの人に会うことにした。基本的な目的は、暴走を止めることだ。いち早く止めないと、私だけでなく、当該メディアの編集長や取引先、何よりあの人自身の今後に大きく響いてしまうと思った。私の評価を下げたいだけなら匿名にすればいいのに、本名と携帯番号を隠さず電話しまくっていると知り、むしろ自分よりあの人の将来を考えてハラハラしてしまった。
そして、これは私の気持ち悪い性質なのだが、純粋にあの人を知りたくなってしまった。ここまでの執念と衝動が燃えているあの人って、どんな人なんだ、どんな環境に生きているんだ、と。それを理解した上で、どこで境界を引くか判断したいと思った。繰り返すが、私はあの人を透明人間にはしたくない。
初めて見たあの人は純粋でまっすぐな目が印象的な人だった。一応、私は被害者サイドとして当該行為をやめるよう伝えたのだが、あの人は私が口をつぐんでしまうくらいの熱量で自分の過去や発達障害について語り、目の前で泣いている。こっちの苦労や嫌悪なんて1ミリも受け取る気がないのだと実感し、むしろ清々しいくらいだった。
そして、やっぱりこの人も辛かったんだなと、泣いている姿を見て遅ればせながら実感した。後日、私は発達障害についての書籍を何冊か読んでみた。付け焼き刃の知識ではあるが、それでも私がいかにあの人の立場について不寛容であったか反省した。
あの人と対面して、透明人間がいない世界を願っている自分の偽善を引っ剥がされた気がする。私は、いつの間にか自分が被害者だと確信して、あの人の執拗さからただただ逃げていた。なぜあの人がそういう行動に走るのか、想像しなくなっていた。それは無視と同じだ。
改めて振り返ってみて、私は常に「そんなん言わなくてもわかるだろう」という“ふつう”をあの人に押し付けてきたと思う。それらすべてが伝わっていないなんて、想像すらしなかった。これまでちゃんと説明すべきだった。あの人が理解しやすい言葉で、完結に。
- 「約束したところに来ないのは失礼です。準備していた人間は嫌な気もちになります」
- 「誰かに質問したら答えてくれたことに対して『ありがとう』と言ってください」
- 「前にやりとりした人に『はじめまして』と言ってはいけません、相手は傷つきます」
- 「避けられていると感じたら追い回さず身を引いてください、相手はしんどいです」
- 「自分のためでなく相手のために何ができるか考えてください、それが仕事です」
- 「傷つきが原因で第三者に事実と異なることを言うと、あなたが加害者になる可能性があります」
- 「これらを重ねた上で相手から好かれるのは極めて難しいです、受け入れてください」
私はこういう説明から逃げてしまった時点で、やはり周囲と同じくあの人を透明人間として扱っていたと思う。
私はずっと、自分が傷つきたくなかった。こういう説明をして、あの人と深く関わることで、厄介事に巻き込まれたくなかった。でも、もしもみんながそうだとしたら。誰もあの人に、わかりやすく説明しようと、コミュニケーションを取ろうとしていないんだったら。その当事者になったことを想像するだけで、怖くて震える。
6 護られた者の孤独
私は一連の騒動で、あの人のご両親ともコミュニケーションを取った。お父様は騒動の概要を聞いたとき、はじめに「SNSって怖いですね」とポツリと言った。怖いのはSNS自体ではなく我が子のSNSの使い方かもしれないと想像してくれただろうか。お母様は「うちの子はライターとしてもうやっていけないんでしょうか」と質問してきた。質問された私のほうがお子さんの誹謗中傷が原因でライターとして窮地に立たされていると少しでも想像してくれただろうか。あの人は、この二人と経済的不自由のない実家に護られているのか、と思った。
お母様から後日いただいた電話で「(私の取引先に対しての)謝罪がすべて終われば、これ以上うちの子どもに関わらないでいただけますか」と念を押された。正直、今までだって関わりたくて関わってきたわけではない。むしろ避け続けてきた。子どもを護る母の気もちから出た言葉だろうが、苦い思いがこみ上げた。子を客観視できない親としか関われない閉ざされた環境であの人は生きているのか、と。
対面時、私はあの人にひとつの提案をした。「もし私でよければ、友だちになりましょうか」と。SNSで不特定多数に薄っぺらい関与を続けるよりは、私と不定期でお茶をする仲にでもなったほうが、よっぽど有意義だろう。もちろん私も暇じゃないし、大好きな友だちのほうが最優先だが、社会との接点となる最初のとっかかりさえ作れれば、と。しかし、提案に対してお母様が大きく首を振った。「ご迷惑をおかけするから、これ以上親しくならないほうがいいです、今後一切連絡はしないでください」と。本人もそれに同調した。
リアルであの人と友だちになった人が、過去にどれほど迷惑を被ったのか私は知らない。ただ、「迷惑をかけるから親しくならないほうがいい」という言葉は、それから数ヶ月経った今も、ずっと頭にこびりついている。迷惑をかけること自体は悪いことじゃないのに。むしろ迷惑のかけあいで、人は人を知っていくのに。私はそれも覚悟の上で、「友だちになりましょうか」と提案したのに。そこすら閉ざしてしまったら、あの人のこころは一生育たないんじゃないか?
ちなみに、私はこの一連のトラブルについて弁護士、警察とそれぞれやりとりし、あの人の行為は「誹謗中傷」「業務妨害」といった罪に問われるものだと確認した。だが、プロはいずれも言葉を慎重に選びつつも、「相手に障害があるのならば、責任能力を問えないから戦ってもこちらに利が少ない」と言った。まぁ、オブラートをはがせば「まともじゃない相手はほっとけ」スタンスだ。あの人はもはや、法的にも気づきの機会を与えられないのか。じゃあ誰があの人に「今やってることはまずいんだよ」と教えられるんだよ。私は結局、あの人を訴えなかった。賠償金数十万円と引き換えにあの人の履歴を汚したところで、なんの価値にもならない。
それより、誰もあの人に向き合っていない結果が今のあの人ならば、それはあの人の“せい”なんだろうか。あの人が“ふつう”じゃないのは、あの人だけの“せい”なんだろうか。本人と対面して、ご両親と話して、発達障害についての書籍を読んで、警察や弁護士の温度感を知って、あの人がいかに人間関係に関わる学びの機会を絶たれ、周囲から無視されて生きてきたのか想像した。もちろん、周囲から得られる学びを吸収しづらい障害を抱えているだろうし、それが原因で嫌な思いをした人もたくさんいるだろう。私だってその一人と言えるかもしれない。でも、周囲も周囲で、はなからあきらめて怖がって避けてはいないだろうか。かく言う私だって無視した一人なのだ。私は、あの人にとって被害者でも加害者でも傍観者でもある。
だから、ここから先は、こういう経験を経た私から、あの人、及びあの人のような人の周辺にいる人たちに、伝えたいことを書く。“障る”だろうが、覚悟して透明人間の世界に切り込む。
7 免罪符
私が聞く限りでは、あの人は現在進行系でそれなりに失礼なことをしているらしい。一部の人はどうとも思わないだろうが。
- 話そうと誘い、約束までしてドタキャン
- 相互フォローになるまでリプライやDMでアピールし続ける
- フォローを外したりフォローしたりを繰り返す
- 雑談を楽しんでいると思いきやフォローを促す文言が最後に入って萎える
- 鍵をかけて盛大なブーメランを投稿してすぐ消している
※私が受けた行為や感想ではない。あくまで伝聞情報だ。
おそらくこれらの行為を多くの人は疑問に思いつつ「めんどくせえ」と思い、無視するだろう。それを多くの人が繰り返した集積が、“あれ”だ。他者の人間関係をトレースし、上澄みのフォロワー数だけが増え続けて実際は誰にも見られていない、広大な透明人間の世界。
これって結構な拷問じゃないか。当事者は苦しいと思う。失礼な相手の苦しみなどそこまで慮る必要ないだろう、と諭されることもある。でも、きっとあの人は、そうやって“慮る必要がない”相手として扱われ続けたことに対し、激しい怒りともどかしさを感じているのだと思う。
そもそも自分が失礼な行動を取っている自覚がないなら、そりゃあもどかしいだろう。私たちは多分、あの人と前提条件が合っていないのだ。そして、あの人は自分が不当に扱われる理由がわからないから、それは発達障害や精神の病のせいだと結論づけている。(直接ここには紐付けないが、本人が語っているエッセイ的なものを読むと、「病気だからこの行動はしょうがない」「悪意はないから許されるはず」という本人の解釈が読み取れる。)
この結論について、私は複雑な気もちを抱えてきた。ずっと言いたくて言えなかった部分だ。
ある知人は、あの人の無神経なSNSでの振る舞いに対し、「自分だって同じ発達障害をもっているのに」「それでも迷惑をかけないように頑張っているのに」と憤っていた。「同じ障害をもつ人が、みなあの人と同じように浅はかな人間だとは思われたくない」。その言葉を聞いたとき、あの人の行動や言動はそういう怒りの根源にもなり得るのか、と気付かされた。
発達障害や精神の病がもたらす問題は事実あるし、あの人の行動だって特定の障害における傾向と完全に一致する。でも「だから起こった問題だよ、全部許してね」と当事者が開き直ってしまうのは、やっぱり違うんだと思う。それを当事者でない私が言うことで、「おまえに何がわかる」と叫ばれれば、わからないとしか答えようがない。でも、やっぱり障害や病を盾にしてすべて許されるわけではないことは、事実として受け止めてほしい。
対面した際、あの人が私のことを「うらやましい」と言った。仕事において成功していること、結婚していること、友がいること。そして編集長からSNS上の行動が異常だと指摘されたことに対して「私の何がわかる」と激昂していた。自分が世界で一番悲しい人であるかのように。私はその瞬間「あなたは編集長や私の何がわかるんですか」と言葉をかぶせてしまった。そこまではすべて傾聴していたが、それだけは言いたかった。
あなたの痛みなんて、誰もわからない。一方であなたは他人の痛みを知らない。一生わからないんだよ。お互いの苦しみや痛みなんて。
ここは、基本的にはわかりあえない者たちが生きている社会なんだよ。それぞれに苦しみと喜びがあって、一番かわいそうな人も、一番しあわせな人も、いないんだよ。だから万人から許される人も、万人から責められる人も、いないんだよ。
誰かが間違えてしまったり失敗したりしたときに、迷惑を被る相手はいるだろう。それを許さない行為は、自分自身に許されない呪いをかけることになる。一方で、私たち人間は誰でも彼でも許せるわけではない。許せない感情を抑えるのも難しい。相手を許すか、許さないか。葛藤しながら、人は自分自身の判断基準や価値観、相手の多様性を学んでいくんだと思う。そのプロセスで、わかりあえることもあるのだと思う。
そういう社会の中で、私たちは生きている。だから誰かに選ばれたいなら、許されたいなら、誰かを選ばなきゃ、許さなきゃ、いけないんだよ。そして、そうやって誰かを選ぶとき、選ばれない人が確実にいるんだよ。あの人はそれを認められない世界で生きているから、自分が理解されて当たり前なんて傲慢を振りかざせるんだと思ってしまう。
8 孤独の海に手を伸ばしてほしい
いろいろ検討した結果、私は昨年末、あの人に対して弁護士を通じて内容証明を送った。あの人が何をしたか列挙した上で、もう今後、私自身及び私の取引先、知人には一切関わらないでくれという内容で。訴えない選択をしつつ最低限のリスクヘッジをしないと今後の仕事がしづらいという苦心から、最低限打った楔だった。しかし、そのメッセージがいまいち伝わっていないようだ。
今でもあの人は私が書いているメディアに営業行為を続けているらしいし、私が現状所属する数少ないコミュニティのイベントに参加を申し込んだと聞いている。全部全部「偶然」なのかもね。今はもう笑えてしまう。その行動力と開き直りに拍手しつつも、避けるこっちは地雷だらけの戦場で仕事しているような気分だ。
あと、結局あの人はいまだにSNSを頑張っちゃっている。対面時に「ご自身のためにもSNSと距離を置いたほうがいいです」と強く勧めたのだが、何一つ響かなかったようだ。
改めて特定のワードで検索してみると、2015年頃からすでに同じようなSNS頑張るマン行為を繰り返していたことが間接的にわかる。ライターを名乗りだす前、特定のコミュニティ内で私以上にえげつない被害を受けている人が大人数いることも知ってしまった。7年間、あの人はSNSで誰かとつながりたいと願ってはうまくいかず攻撃に転じ、その後は一定以上親しくならないようブレーキをかけ続けてきたのかもしれない。
でもそれは、非常に厄介な未来につながっている。たしかに一定以上親しくならなければトラブル率は下がるだろうが、薄っぺらいコミュニケーションからは人間関係の大切なことは何一つ学べない。つまり、本人は成長しないまま周囲への関与だけが続き、なんとなく周りが「嫌だな」と思いながら、なんとなく無視し続ける。それがずっと続く。そういう未来が見える。
たとえ警察沙汰になっても訴えられても障害者という盾がある。何かあれば親も全力で守ってくれるし、実家があればライターと言って家にいるだけで食事が出てくる。たとえアカウントが凍結されようとロックされようと、何度でも何度でもアカウントを作り直せばまた同じ行為を繰り返せる。相手の気もちさえ無視すれば何度でもアタックできるし、相手の時間さえ配慮しなければ薄っぺらいコミュニケーションも続けられる。
でも。私は叫びたい。
それでしあわせになる人は、一人もいない。私はこれからもあの人という地雷をネット上で避けながらライターを続ける。私以外にも同じ境遇のライターさんがいる。どの方も大々的に叫べず、内輪で注意喚起しながら生きている。
また、たび重なる営業電話に疲弊しているメディア運営者も、編集プロダクションもいる。SNS上でいくら無視してもDMやリプライが来て、嫌々ながら相互フォローをしているという人がいる。これらは私の想像ではなく直接聞いた事実だ。でも、誰も「嫌」と言えない、言わない。そして何より、誰からも言われないことで、気付けないあの人がいる。2015年から、ずっと。誰が一番不幸って、あの人自身が一番不幸だと思う。
だから私は、下記を周囲の人々に伝えたい。
- 「誰かと親しくなりたい」「○○がしたい」と個人が思うことを阻害する権利は第三者にはない
- 一方で人間関係には双方の感情があり、仕事には適性がある
- それら相手の感情、仕事の適性について、自分で気づきづらい人もいる
- 親しさの距離、理解の深度に違和感を覚えるのは当事者同士の問題であって第三者は介入できない
- それを言われなくても問題として気付ける人も、気付けない人もいる
- 気付けない人は、指摘されるまで問題に気付けない上に同じ問題を繰り返し続ける
- なんなら指摘されても問題に気付けないケースもある
- インターネットを介する場合、その問題行為の繰り返しの波及力と影響力は多大かつ不明瞭になる
- だから問題を当事者が向き合って指摘し続けることでしか根本的な課題解決が望めないこともある
“ヤバい”から怖いかもしれないし、どうでもいい相手だから時間をかけるのが面倒かもしれない。そもそも言って意味があるのか、正直わからない。言っても言ってもわからないかもしれない。でも、言わなきゃ絶対にわからない。だから、もし嫌だと思うことが周囲で起きているなら、勇気を奮い立たせて直接相手に伝えるしかないと思う。
私は、正直、この文章を出すことが怖い。また周囲に爆発的な誹謗中傷をまき散らかされることも想像できるし、「こんな長文書いてこいつもめんどくせぇヤツだな」と思われるだろう。それに加えて、障害や心の病について触れているから、同じような境遇の誰かの心に思わぬ形で刺さってしまうかもしれない。自分が意図しない形で解釈されてしまうこともあるだろう。
でも、本質的な課題を解決するために、「もう無視するのをやめよう」とどうしても伝えたかった。あの人が教えてくれたことを、自分の中だけにとどめておきたくない。それに、現在進行系で迷惑行為(本人が意図せずとも)は続いているわけだから、放置して何かが好転するとは思えなかった。
私がこれを書いたことで、あとに続けるなら続いてほしい。私はあの人に対して、嫌だったことをすべてここに書いている。また、3年間、悩み、壊れ、考えてきた経緯も。あの人が苦しんでいる障害のことを学んだり、あの人がどんな思考で行動するのか考えたり、どういう言葉で伝えれば伝わるのかシミュレーションしたり、なんならマジで仲良くなれるか検討するところまで及んだことも。
その上で、ちゃんと自分の気もちを表明する。やっぱり私はあの人の無神経さがたまらなく嫌いだ。事件があっても何一つ改めようとしない姿勢が嫌いだ。たとえ障害がその性質の一因であろうと、私は障害を憎まない。あの人の個人の問題と捉える。だって同じ障害をもつ人を憎みたくないし、同じ障害をもっていても大好きな友がいるからだ。
それと同時に、私は今でもあの人の変化を願っている。私はあきらめていない。だからリスクを負ってでもこの記事を公開する。
なぜ周囲から無視されるのか、あの人に自分で納得してほしい。なぜライターとして成功できないのか、あの人に自分で気づいてほしい。なぜSNSから離れたほうがいいのか、自覚してほしい。そのためのきっかけを、みんなで作っていこうと呼びかけたい。私も、閉じていた鍵を開ける。ずっと怖くて逃げていたけれど、もう逃げない。もしも本人から直接なんらかの行為をされた場合は、我慢せずに嫌だと言う。そのプロセスは、言うほうも言われるほうも痛いだろう。でもみんなで乗り越えていこうよ。
これからどんな苦しいことがあったとしても、私は最終的に孤独の海から自力で上がってきてほしい。みんながその海に溺れることはできないけど、あの人がちゃんと自力で這い上がってきたら、きっと一部の人は「お疲れ様」とタオルを渡してくれるはずだ。私はもう、多分タオルは渡せない。でも遠くから拍手を贈ることは約束する。
9 終わりに
この場を借りて謝りたいことがあります。Twitterで、顔や居住地がわからない、一度も話したことがない約500名のユーザーさんをブロ解しました。そのほとんどが“あの人”ではなかったんだろうけれど、どこから監視されているのかわからず、恐怖のあまり衝動で手当たり次第ブロ解してしまいました。申し訳ありません。これをもし読んでいる人で該当者がいたら、心からお詫びします。失礼なことをして、ごめんなさい。精神的に追い詰められ、冷静な判断ができなくなっていました。
私もまた、恐怖から異常な行為に及んだことで、無関係な誰かを傷つけてしまった人間だと自覚しています。だからこそ、ここに書いたことはあの人だけの問題だとはこれっぽっちも思っていないし、自分自身も加害者であって異常者だということを書いておきたかったのです。あのときブロ解してしまったことを、本当に申し訳なく思っています。
また、精神的に不安定になった私を支えてくれた多くの方々に、この場を借りて感謝します。今も定期的にカウンセリングに通っていますし、もう大丈夫かと問われれば微妙なところです。
でも、「全部書いて吹っ切っちゃえ」と背を押してくれたり、「どんだけ長くても最後まで読むよ」と応援してくれたりした人たちのおかげで、これを書けました。出したらまたなんらかの波紋は広がるのだろうけれど、私にはみんながいるから大丈夫。と自分に言い聞かせて、これを出します。
+++
最後に、「あの人」へ。十中八九あなた自身もこれを読んでいると思います。きっとあなたにはあなたの言い分があるだろうし、あなたが見てきた事実があるだろうし、私を責めたい気もちがふつふつと湧き上がっているかもしれません。別にそうしても構わないのですが、一度その手を止めて、以下を試してみてください。
- あなたがこれを読んで「嫌な思いをさせたかもしれない」と思う人を10名挙げてください
- その中からあなたが「これからも大切にしたい」と思う人を5名選んでください
- その人たちに「突然ですが、もしかしてこれまで嫌な思いをさせてきましたか?」とDMで聞いてみてください。
- 答えが「YES」なら四の五の言わずに謝って詳細を聞いてください。「NO」なら「ありがとう、これからもよろしくね」と送ってください。なお、返信が来なかった人はそれ以上連絡を取るのをやめてください。その人の周囲に連絡を取るのも併せてやめましょう。
このチュートリアルだけ、置いておきます。やるかやらないかは任せます。なお、このチュートリアルが使えるのは一度だけです。万人にやっていいわけではありません。相手を選ぶから意味があります。そしてあなたが選んだ5名から始まるコミュニケーションを伸ばしてください。薄く広くではなく、深く誰かとわかりあおうと、相手を知ろうと努力してください。
もしも5名のうち誰からも返信が来なかった場合は、思い切ってSNSをやめてみてください。依存を断ち切るのは大変でしょうが、メリットに焦点をあててみてください。実はSNSよりもリアルのほうがよっぽどあなたが欲しているものが手に入りやすいです。そのぶんもちろん痛い経験が多いでしょうし、過去のことなども鑑みると勇気が要るでしょうが、それでも私は、リアルで基礎レベルを上げてからSNSを使うことを強くお勧めします。絶望的なことをはっきり言いますが、運用するあなた自身が同一人物である以上、リアルでうまくいかないならSNSでも100%うまくいかないからです。
私からあなたに伝えたいことは、以上です。私はこれまでやりとりしてきたDMでも、対面したときも、そして今も、あなたに最後に必ず伝えている言葉があります。歪んで見えるかもしれませんが、どうか私の真意を忘れないでください。
「応援しています。」
追記(2022/2/7 AM9:00)
記事を読んでいただき、ありがとうございます。
予想以上に多くの人に届いたことで、あたたかなメッセージや、一方で私の至らなさ等についてご指摘いただくご連絡もいただいております。追記する必要があると思うことのみ、下記に記します。
1 反響による当事者の「傷つき」への配慮
記事の内容自体より、この記事が拡散され筆者に対する共感が寄せられる状況が広がることそのものが、記事に登場する「あの人」に近しい境遇の人の心を傷つけるのでは、というご意見をいただきました。これにつきましては、私が共感に対する感謝の気もちをRTやリプライなどそれ以上拡散しない形で示す(いいね、など静的な反応)ことで少しでも拡散を和らげる形を取ることで対処することにしました。ご指摘いただいた方もそれでご了承いただいています。
2 「発達障害」「精神の病」という表現について
発達障害や精神病にもさまざまな種類がある、とご教示いただきました。「知っている」というほどに私は勉強した身ではありませんが、障害や精神病に種類があり、それぞれ傾向が異なることは知らないわけではありません。その上で、本記事ではその障害名や病名を明記することで「あの人」が特定されてしまうことや、障害名や病名に今回書いたエピソードが色濃く印象づいてしまうことを避けるため、あえてぼかしていることをここに書かせてください。また、文中で出てくる、私の知人が憤るシーンの知人も、「あの人」と全く同じ”特定の”障害をもった人です。また、それをふまえたうえで仮に”特定の”障害であってもその症状が一致しないということも含め、理解しております。誤解を避けるため、追記させていただきます。
追記(2022/2/7 PM1:00)
3 発達障害当事者の親族に対する配慮
本記事で「あの人」の両親について記しましたが、それについて「家族はもうどうすることもできない」「度重なる外部とのトラブルの回収を続けてきた身では、もう周囲から隔絶する以外の方法を知らない」といった内容のお話を個別でしてくださった方がいます。これについては、ご本人のお話を聞き、ご本人と私の間で必要性があると考えた場合は別途文章を書くという方向で話しています。ただ、この時点でまず追記で手短に述べたいのは、そういったご家族への配慮が欠けた表現が多かったことを、お詫びします。申し訳ありません。これまでの家族の時間をすべて想像しているのかと問われれば、解像度高くまでは想像できていないと自覚しています。子どものトラブルについて対処するご家族の態度を改めてほしいと言っているわけではありません。ただ、そのように受け取られてしまっても仕方がなかったと読み返して反省しております。
また、追記する必要が出た場合はここに追記していきます。
なお、私は本記事を自らの慰労や鼓舞のために出したつもりはない、ということもここに記しておきます。結果的に多くの方がそういった言葉をくださっていることを、心から感謝しています。ただ、私が向き合ってほしいのは、私ではなく「あの人」です。「あの人」側の視点だけでこの体験談を成立させることができなかったから、また、「あの人」に人の心の内側がどれほどに蠢くものなのか見てほしくて、私の内情を書きましたが、それは「私を見て、労って」というメッセージではありません。私は今回、結果として数を集めて自分を護る強者に一部の人から見えてしまっているかもしれません。本人にその意図はない、ということだけ伝えさせてください。私は強くありません。ただ文章しか自分の限界まで誠実に伝える術を知らないだけです。
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